童謡の里 龍野 碑巡り

23「矢野勘治」の頌徳碑、寮歌碑

■所在/龍野公園動物園内の上部
■建碑/昭和38年5月26日

矢野勘治は、明治13年、龍野町日山の三木定七の次男に生まれ、矢野家の養嗣子になった。明治32年第一高等学校に入学し、34年3月、2年の時の記念祭に頼まれて西寮々歌「春爛漫」を作詞した。これが好評で翌年の記念祭に東寮々歌「嗚呼玉胚」を作った。この寮歌は一高健児の意気とロマンを高らかに歌い上げた青春の歌であった。一高時代根岸短歌会に属し興安嶺と号していたこともあった。
明治39年、東大を出て、横浜正金銀行(現東京銀行)に入社、ロンドン、大阪支店長を歴任し、取締役となり財界に活躍した。吉田首相は東大時代の同級生であり、その誼から頌徳碑の題字が寄せられたのである。昭和36年5月18日に没し、行年82歳であった。

春爛漫の花の色春爛漫の花の色紫匂ふ雲間より紅深き朝日影長閑けき光さし添へば鳥は囀り蝶は舞ひ散り来る花も光あり秋玲瓏の夕紅葉山の端近くかぎろへる血潮の色の夕日影岡の紅葉にうつろへば錦栄えある心地して入相の鐘暮れて行く

嗚呼玉杯に花うけて嗚呼玉杯に花うけて緑酒に月の影やどし治安の夢に耽りたる栄華の巷低く見て向が岡に聳り立つ悟寮の健児意気高し芙蓉の雪の精を採り芳野の花の華を奪ひ清き心の益良夫が剣と筆とを執り持ちて一度起たば何事か人世の偉業成らざらむ

24「松本松籟」の頌徳碑

■所在/龍野公園動物園の上 風外園内右
■建碑/昭和15年4月

松籟は、慶應3年(1867年)水谷蔵六の二男に生まれ、名を健三郎といい、松本家を継いだ。西播五郡組合立龍野中学校を出たが、多くの友人が東都に遊学する中で、学資がなくて台嶺学校(本間塾)に奉職した。暫くして神戸に出て質商を始め財をなした。その後朝鮮に松本農場を開き、経営すること30年、ついに成功した。大正12年、百数十町歩の田地を財源として、奨学資金の財団法人を作り、家計に恵まれない子弟の育英に努めた。
この碑は、これら恩恵を受けた人達によって結された成蹊会の建碑である。昭和13年に没し、行年72歳であった。

たつの市の文化紹介『たつのへようきたったなぁ』
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