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インタビュー音楽の達人 守谷忠彦さん(第2回)

<十合目のコンサートの次は・・・>

聞き手;5年目で十合目のコンサートをやられてその後はどうされたんですか?

守谷;十合目までやると、本当は、(山登りだったら)九合目、八合目と「下りコンサート」をやらないといけないですがね。

聞き手;ああ、そうですか!十合目まで行ったら次は下っていかないといけないんですね。

守谷;いやいや、それは洒落ですけどね。(笑)
結局10周年のコンサートは姫路キャスパホールでしました。たくさんお客さんに来て頂きました。ただ、演奏は荒かったと思います。私も当時40台後半で、若さがあり、まだ勢いもありました。
その後、活動があまり活発でない時期がありました。皆んな仕事で責任ある地位についたり、家庭でも子供が大きくなっていって大変な時期がありました。しかし、時々コンサートをやったり、詩を創ったり、皆と酒を飲んだりしていましたね。

聞き手;私の場合は、35歳でバンドが出来なくなりました。それまでは何とか出来たのですが、皆仕事や家庭のことでチリジリばらばらになってしまいました。

守谷;林氏はタイへ4年ぐらい転勤になりましたよ。彼が抜けると大変痛かったですね。そういうこともあってボチボチやるしかなかったです。

(還暦コンサート)
(還暦コンサート)

守谷;その後、私が還暦になったので時間が出来てきて、イーグレで「還暦コンサート」をやりました。その辺からまた活発になってきました。それからCDを作ったり、わたしの詩集を出したので出版記念会なんかもやりました。 また、「灘菊酒蔵」、英国風パブ「ホサンナ」でディナーコンサートもやりましたし、大きな行事では、2007年に赤とんぼ文化ホールで多田周子さんらと一緒にヒューマンフェスティバルに出ました。また、室津で歴史絵巻・御津町編ということで御津町の「さとの会」という津軽三味線や、篠笛の「城山如水」さんやハーモニカの「ハモレット」とも一緒に賀茂神社の境内で演奏させて頂きました。

聞き手;龍野もお寺などで演奏したりしますが、賀茂神社はまた違った雰囲気があるでしょうね。

(世界の梅公園ミュージックフェスティバル)
(世界の梅公園ミュージックフェスティバル)

守谷;いわゆる歴史とロマンのある場所で一度やってみたいと思っていましたので、大変印象深かったです。それから屋外のライブとしては、「室津街道コンサート」をやりましたし、5年前からやっている「世界の梅公園ミュージックフェスティバル」も毎年実施しています。

<初めは室津、今は龍野・・・>

守谷;初めは室津が好きで室津をテーマにやっていたと言いましたが、最近は“龍野”なんです。思い入れは龍野の町の方に高くなっていますが、勿論、室津も好きです。今まで鶏籠山のことなど全然知らなかったんですが、いろんな本を読みました。司馬遼太郎がここへきて書いた龍野橋の東詰から見た鶏籠山のことも初めて知りました。

聞き手;寅さんの映画で商工観光課長(櫻井センリ)が、“ここ(龍野橋の東詰)から見た鶏籠山が一番美しいんです”と寅さんに説明していましたね。私は、その時までおぼろげにそう思っていましたが、揖西町から見たらゴリラの頭のような感じがしますので、やはり龍野橋の東詰から見た方が断然美しいです。

守谷;觜崎から見たら“寝釈迦さん”と言いますね。それなりに綺麗ですよ。揖保川沿いの東南から見ても“寝釈迦さん”ですよ。まったく遜色ないですよ。

聞き手;そうですか!また一度見てみます。

(鶏籠山)
(鶏籠山)

守谷;鶏籠山のことも歴史等を調べてみたら面白いです。城主が赤松から始まって脇坂まで変わっていったんですが、前の図書館長だった生駒さんが書かれた「鶏籠の山に抱かれて」という本を読ませてもらって良く分かりました。実は、私も鶏籠山に何回か登って“いい山やなぁ”と思いました。

聞き手;新宮の外人の方が鶏籠山に登られて、古いものを発掘されたという新聞記事も最近見ました。ですから今もまだまだ何かが残っているんでしょうね。

守谷;また、三木露風が城下町で生まれました。いつも紅葉谷を登って両見坂まで行って、そこで鳥取の方の空を見ながら、「お母ぁは、いつ帰ってくるんだろう」と思っていたそうです。そんなことを聞くと胸が熱くなります。
また、脇坂藩が大変良い藩政をしたため一揆なども起こらなかったし、教育も熱心だった為、名門の龍野中学や龍野高校もあり、三木清とか矢野勘治などが育ちましたね。そういう龍野の土壌が良いなあ、奥深さがあるなあと思います。そういうところに目を向けていったら何か書けそうかなと思います。

聞き手;それだけ偉大な文学者を輩出したのはすごいことですからね。

守谷;それは、鶏籠山に囲まれ、揖保川を見て育ち、城下町の歴史などが自分の血液のようになっていたからではないかと思います。露風がなぜあのような詩が書けたのか、ここ(龍野)を見たら分かるような気がします。

聞き手;私たち赤トンボを増やそう会でもいろいろ調べたのですが、露風がなぜあのような詩を創ったか。北海道で幼かった子供の頃の龍野の情景、故郷を思い出して詠ったということが良く現われている詩だなぁと思いました。

守谷;そういう大変良い町なので、実は、私もここに住みたいなぁと思っていました。

聞き手;また、この山には野見宿禰(のみのすくね)という相撲の神様が祀(まつ)ってあり、龍野神社で昔相撲の巡業が行なわれていたのを薄い記憶ですが覚えています。埴輪の時代から続いている歴史の長さ、深さを感じます。

守谷;そうですね。龍野はいろんな話があって“豊か”ですね。

聞き手;そういう歴史や龍野の特徴をぜひ歌にして頂きたいと思います。

<今までの活動で最も印象に残っていることは?>

聞き手;今までの活動の中で印象に残っていることはありますか?

守谷;我々は合宿をやって曲を仕上げていくんですが、それが楽しいですね。 30周年記念CDを作りましたが、2曲だけでしたが、2日間、新舞子の民宿カトレアさんでやりました。2階で録音、下で練習をして、10人いますから1人ずつ2階へ上がっていくんです。2階に上がったらOKになるまで降りて来られないんです。大体5回ぐらいしたらOKになりましたけどね。大体1時間ぐらいは降りて来られないんですよ。(笑)

聞き手;テイクファイブ(5回録音するという意味)ですね。大変ですね。10人だと述べ10時間かかることになりますね。曲を創る時には、ベースになるものは誰がやっているんですか?

守谷; 一応パソコンでメロディを作っています。それにまずベースを録音し、次にギターを収録し、順次各パートがかぶせていきます。

聞き手;全員が初めのメロディに重ねていくんですが?

守谷;いや、順次重ねていったものを聴きながらさらに重ねていきます。

聞き手;そうすると初めの方の人は大変ですね。5人目なら4つのパートが入っていて、7人目なら6つのパートが入っているのを聴きながら演奏していくんですね。ミキサーも持ち込んでいるんですか?

守谷;そうです。カトレアさんには当然ありませんからね。

(CD完成記念コンサート)
(CD完成記念コンサート)

聞き手;スゴイですね。合宿でそれが出来るんですか。昔だったら考えられないですね。

守谷;音楽や音響機材等に造詣が深い田中氏や林氏がいたからやれるんです。

聞き手;メンバーに恵まれていたんですね。本当に素晴らしいです。
ところで、最後にメンバーの方々に言いたいことはありますか?

守谷;そうですね。30年もやってこられたのは、うまい間尺というか距離感をもってやってきたからだと思います。もめるということもありましたが、後に残らない。そういうメンバー間の良い関係を維持する為に、時々お酒を飲み交わす懇親会をやったりしていました。やはり私としては、皆、演奏集団であると同時に創造集団であってほしい。両輪ですからね。そして今後も新しい曲を生み出してほしいと思っています。

聞き手;何か社長の年頭の辞みたいですね。(笑)

守谷;いや、そんな硬いつもりはないですけどね。(笑)

聞き手;いわゆる大きな意味の“大方針”ですよね。

守谷;そう、基本的なコンセプトですから。以前それでもめたことがあります。“我々は演奏集団や”と言う人がいて、それに対して“いや、創造集団や”と言う人もいたんですが、私は“両方や”と言ったんです。

聞き手;早い話が“両方”ということですね。その通りですね。

守谷;若い時はいろいろあって、やはり演奏だけしたい人もいますからね。

聞き手;そうですね。バンドの離合集散はお互いの自己主張が原因になることが多いのですが、自己主張は有って当然とは言うものの、他人の意見を聞く度量がないと結局は収まらないですからね。

守谷;そういう中で、“おる処がないな”とか“おってもしょうがない”と思いだしたら良くない。やはり、それぞれ良さを認め、前面に出してやることが大事だと思います。

聞き手;リーダーとして本当に良いかじ取りをされていると思います。

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